眞壁明吉良の一日

うどんを科学する

真田昌幸 真田信綱(幸村)父子と乱世の世の中

今から四十年ほど前、NHKでは人形劇で、「真田十勇士」が放送された。猿飛佐助という忍者がいたりしたという記憶しかなく、小学生の私には歴史背景を正確に理解するには不十分で難しかった。今、歴史を理解し、真田信綱(幸村)が、多くの武将達が豊臣方(西軍)から徳川方(東軍)に寝返る中、最期まで徳川家康の首を狙い、その一歩手前まで追い込んだ戦国きっての猛将であり、真田十勇士はその家臣達であることを知ったのは高校の歴史を学んでからであった。関ヶ原の戦い、真田家存続のために、父 真田昌幸、子 信綱(幸村)は西軍、子 信之は東軍について戦った。幸村は才知に長け、東軍を大和路から攻めることを提言したが、豊臣秀頼の側近に却下された。関ヶ原の戦いで敗北、父と共に、高野山へ幽閉される。これは東軍についた兄 信之の嘆願により何とか命だけは救われた処置と言われる。昌幸は臨終の際、幸村に「お前の方がわしより才知にまさっている」、「提言が採択、実行されるには、発案者の信用がすべてを決する」と言い残したと言われる。徳川からの和睦の誓書締結の際に、徳川家康を夜襲する提言を幸村はしたが、これもまた、秀頼側近により却下される。豊臣存続のために、自分自身の才能をすべて出し、命懸けで臨もうとする幸村とはかけ離れた秀頼の側近達により、勝利の芽をどんどん摘まれ、最期の戦いを迎える。真田幸村は徳川家康の陣地に家臣と共に突撃し、疾走、本陣まで迫った。懐には西洋式の最新式の拳銃を入れ向かったという。本陣にいた徳川家康は、「もはやこれまで」と切腹の覚悟を決めていたという。馬上で懐から拳銃を取りだそうとした時、幸村は拳銃を落としてしまう。痛恨のファンブル、この一瞬が時代を決めた。幸村は討ち取られたが、徳川家康はこの勇士の御霊を弔ったという。徳川から好条件で寝返りを要請されても、決して寝返ることなく、ただ一人、最期の最期まで徳川家康の首を取ることだけに命をかけた真田幸村の生き方は真田十勇士として、数多くの物語を生んだ。発案者の信用、昌幸のいうことは本質である。しかしながら、真実、本質を知らぬ凡人に迎合し続けることが信用をつける道であるならば、革新は出来ず、勝利を勝ち取ることは出来ないという意味も持つ真田幸村から学ぶ人生教訓である。人間は悲しいかな、ただ単に、仲良しかそうでないかという単純な分類しか出来ない動物かもしれない。
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  1. 2015/03/31(火) 06:04:55|
  2. 雑感、考察
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