眞壁明吉良の一日

うどんを科学する

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
  1. --/--/--(--) --:--:--|
  2. スポンサー広告

織田信秀 織田信長父子の関係と危機をのりきること

織田信秀、織田信長の父であり、器用(華やかで実があり清潔である)と評された名将であった。今川義元を破り、織田信長には父親としていつも名将としての立ち振舞いを見せた。信長は、父が今川義元を打ち破ったことを支えとし、敬慕した。信秀の時代は「不安の時代」、信長の時代は「危機の時代」と捉えていた。戦国武将の多くは乱世を生き残るため、武術、儒学、仏教、歌学を研鑽するという帝王学を学んだ。武田信玄、上杉謙信等の戦国武将は強い精神力、体力を帝王学を学ぶことによりつけていった。信秀は信長を型にはめず、自由に好きなことをさせ、個性を伸ばさせた。「天下布武」という強い個性はそのような教育から生まれた。織田信忠、織田信長の嫡男であり、あまりクローズアップされない人物である。信忠は、最近まで、織田信長が徳川家康の嫡男 徳川信康を切腹させたことから、信康に比べ、信忠が著しく能力的に劣るために、どうしても排斥しなければならない、怖れていたという解釈がされてきた。しかし、近年、研究も進み、織田信忠は、信長の命をこなし、なかなかの力を持ち、能力も高かったことが明らかになってきた。織田信忠は三木城を攻略する際に、信長に抗弁した以外は、従順で、信長に従った。信長は能楽に傾倒する信忠に、「能楽に傾倒しすぎることは好ましくない」という父としての戒め、戦においては同行するといった父としての子供への愛があった。本能寺の変、織田信長が明智軍に包囲された中、信忠は信長救出のために、命がけで戦う。信長が自刃したことを知り、自らも相手の手にかかることを良しとせず自刃し、26歳の人生を終える。危機の時代は、天才とそれに従順な子により乗りきることは出来なかった。家臣、人との関係から強大な力を持った織田家が滅びたことは、この世は、自らの力のみで生きられるものではなく、他者との関わりが大切であることを意味している。二人の首は発見されなかったが、その墓は京都 妙心寺に建立されている。
スポンサーサイト
  1. 2015/03/29(日) 20:07:56|
  2. 雑感、考察
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0
<<真田昌幸 真田信綱(幸村)父子と乱世の世の中 | ホーム | おめでとう!>>

コメント

コメントの投稿


管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

トラックバック URL
http://udon20100101.blog100.fc2.com/tb.php/463-8e0faf8b
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。