眞壁明吉良の一日

うどんを科学する

沢山の方々との出会い

人は他人により活かされている。縁とは偶然ではなく、必然である、ご紹介頂き、人と出会う。偶然と思えるその出会いは、実は先祖、前世が導く必然である、私はこのように考えなければあり得ない出会いを繰り返してきている。その源は、茨城であることは間違いなく、多くの方々と出会い、楽しい時を過ごさせて頂いている。今日もまた、新しい出会いがある。尊敬される方と縁のある方との出会いである。私の人生哲学に関わる素晴らしい哲学を持ち、美しく生きられた故佐川一信さんの縁の方。私も美しい人生を完結出来るよう、一瞬、一瞬を完全燃焼したい。
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  1. 2011/12/26(月) 18:13:46|
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メリークリスマス

水戸に来ている。昨晩は、根本さんのお宅でクリスマスパーティーに参加させて頂いた。いつもながら、剛さん、さい子さんの温かいおもてなしには感謝している。さい子さん、斎藤さんの美しい歌声、タッドさんの歌、洋一さん、海老根さん、小貫さん、剛さん、皆で歌い、大笑いした。最高に楽しい一時。長男 慶英、長女 令佳のヴァイオリン、ピアノのセッションで『情熱大陸』、『エトピリカ』の演奏もコンピュータで再生され、パーティーに花を添えた。ありがとうございます。水戸は、クリスマスイブを静かに迎えています。
  1. 2011/12/24(土) 19:15:11|
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暫定基準値、目標値の設定について

原発事故以降の放射性物質、放射線についての暫定基準値あるいは目標値には、科学と言うものがまったく見えない。というのは、目標値を達成するための技術が明確に示されていないのである。現在の表土をはがしたぐらいで目標値が達成できるかどうかの研究は十分なされているのか。かなり怪しい気がする。
目標と言うのは具体的な方策が決まって達成されるもので、目標値と言うのは医学、科学の分野での研究調査が十分になされて初めて、決定なされるべきものである。
日本の問題点は、法学と科学との乖離であり、科学技術が基で発生する問題を解決する法律がなかったりする。科学技術を無視した法律、暫定基準値は法治国家として十分機能するよう研究し、日本人が安全に暮らし、生活出来る法律を科学技術、医学に基づき改正していく必要を感じる。障壁は高いが各分野の専門家が協力してプロジェクトを組むことが大切である。
  1. 2011/12/16(金) 16:24:45|
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忠臣蔵と縁について

昨日、仕事で、忠臣蔵四十七士の一人である岡野金右衛門の末裔である方と一緒であった。にこやかで、凡庸とされた方だが動きはただ者ではない。岡野金右衛門は、小野寺十内秀和の甥にあたるが、小野寺十内秀和は、秋田県南地方を治めていた小野寺氏の末裔と伝えられている。私の先祖 眞壁氏の家臣が浅野氏に引き継がれ、四十七士のうち十三人は、眞壁氏つまり我が先祖の家臣であった。
歴史と縁とはまた新たなドラマを生み出してくれ、人と人との出会いはその縁によるものである。それが最近、良く分かるようになってきた。一緒に他人と過ごす時間をおろそかにしてはならない。こう考えると私ももう少し気長に人とお付き合いしなければと猛省させられる。
主君の仇をうつために、自らの命を投げ捨てた四十七士、江戸時代の忠臣達は、現在の政治家、官僚をどのように眺めているであろうか。何百年を超えた忠義が求められる時代を迎えた。
  1. 2011/12/14(水) 05:32:22|
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日本人の歩む道

日本人の歩む道は、明るく希望に満ちた道と考えていましたが、前途がふさがれ、かなり険しいものとなっていることを実感する。その最大要因はなんと言っても原発事故による放射性物質の拡散である。こればかりは、精神論ではどうにもならない。敗戦とはまったく違う、ゼロからまた新たに出発するのではなく、大きな負の遺産を抱えたまま立ち往生している。除染などと言う名ばかりの行為、放射性物質(粉体)を除くのならば、もっと先にすべきではなかったのか?時間が経ちすぎて、土壌、水に染み込んでしまっている。海水への流出、科学技術による解決の枠を大きく超えている。
やはり対応、行動が遅いと致命的な事態を迎える。日本人の行動の遅さはいつから目立ち始めたのか、高度経済成長の頃の日本人と今の日本人では歩くスピードまで違う。
歩くスピードさえ違うのだから動きにも決定的な違いがでる。それは思考にも。危機に動けず、的外れな動きしか見えないこの国は本当に大丈夫か?
変えられない自分が情けない、やはり、自分がいるところは最高の場所にしたい、私はいつもそう取り組んでいるのだが。
  1. 2011/12/14(水) 00:27:28|
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不完全、欠点だらけの自分について

私は短気で、馬鹿と思えるほど、自分の気持ちに正直に発言し、行動する。不完全で、聖人からは程遠い人物と思う。しかし、自分の気持ちに嘘偽りを持ち行動したことはなく、すべて心にあることを残さずはきだしてきた。未熟者であり、馬鹿者である。しかし、私は仏さん、神様から離れた欠点だらけの自分が好きである。おそらく何度生まれ変わっても、私の生き方は変わらないだろう。不完全、欠点だらけだからこそ人間と私は肩肘をはらずに生きている。皆が仏さん、神様の言うような社会になれば、これもおかしなことになると思う。つまり、悟りと言う煩悩、欲をすべて捨てた人間で構成される社会は、理想的ではあれ、モノを生み出さない可能性がある。不完全さ、欠点が駆動力となり、生み出されるモノもこの世の中には多々あると感じている。
  1. 2011/12/11(日) 23:21:21|
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サミュエルソン教授の幸福の方程式2

幸福度=所得÷欲望 と言う式で表されている。望むものが所得により満たされること、すなわち欲望が小さく所得が大きければ、幸福度の数値が高くなると言う方程式は、貧しかった国、国民が経済成長している時には成り立つ概念だと思う。しかし、先進国が成熟期を迎えた時、高齢化が進み、経済成長は終わり、デフレつまり少しの金で生きていける時代に直面する。江戸時代も含め、昭和三十年代まで、日本人の生活は貧しく、食うや食わずの生活を送ってきた。しかしながら、幸福度を上の式とは異なる捉え方、経済とは異なる捉え方をし、生きてきたと解釈する。『宵越しの金は持たない』、自分の稼いだ金を一晩で惜しみなく使いきる、これは欲望のなせる業ではなく、他人への施しと言う考えがある。自分が金を使うことで他人の喜びの顔が見たい、他人を助けたい。名もなく、貧しく、美しくと言う人生の美学を貫こうとする方には上の式は欲望が0に近付き、わずかの所得でも、幸福度は∞となる。こうなると、経済と言う概念、金や損得ではない部分に幸福を感じ、上の式が成り立たない世界、人間が存在する。私自身、そうであるため、昨日のブログで上の式がピンと来なかった。しかし、欲望が無いことは、金を稼ぎだすエネルギーが無い(わずかの金で満足する)社会を生み出すことになるので、稼げる人は稼ぎ、社会へ金を還流させると言う考えで稼がねばならないとも思う。そのためには、血税を無駄に使う行政を改めねばならない。無駄な建設をいまだに続け、本当に困っている人々を救済していない政治、行政。政治、行政のために血税を納め、血税が人々のために使われない、人々のためと言う名目のために使われている原状。血税を子供達の安全、健康、教育に使え、それこそが、働く意義である。日本に『子は宝』と言う言葉が聞かれなくなって久しい。貧しく、戦争に参加してきた戦前の日本では、労働力、兵力として子供は不可欠であったと言う見方も正しいが、現代社会は、子供達が社会を支えると言う意識すら無くなっていることに危機感を感じる。 今さえ良ければ、大人の生活さえ良ければと飽食、無駄なものを作り続け、血税を無駄に使い続け、子供達のことをまったく考えない日本を誰が支えるのか、経済と言う尺度のみでははかれない他人の幸せが自分の幸せと言える人間の教育こそ、現代社会のキイであると感じている。サミュエルソン教授の幸福度の方程式は、色々なことを考えさせてくれる。
  1. 2011/12/08(木) 06:35:20|
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幸福度について

本日、秋田魁新聞の社説に、元ニューヨーク大学教授 佐藤隆三氏の『幸福度』について、ノーベル経済学者 サミュエルソン教授の幸福の方程式が紹介されていた。『幸福は所得、富に比例して増大するが、欲望に反比例して減少する』と言う方程式、やはり経済学者の観点から言うと、経済力が幸福の要因と捉えるところが面白いと感じた。 欲望に反比例すると言うのは意外で、この場合の欲望とは強欲な場合の欲望ととらえていると理解した。欲望が所得を上げるためのエネルギーになるだろうと無欲な私は考えがちだが、所得、富とは切り離したパラメータと考えている点が面白い。所得、富を築くためのエネルギーは経済の分野から考えれば何なのか、興味深いところである。サミュエルソン教授の原書を読みたいと思う。
  1. 2011/12/07(水) 13:52:57|
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秋田 眞壁屋のうどん

秋田 眞壁屋のうどん、眞壁屋 稲庭うどんをお歳暮ギフトへと言うお客様が年々、多くなってきている。世界に通用する食の安全基準をクリアする安全性の試験を行い、素材の安全性を確認した上で、原材料を選択し、完成したうどんの安全性をさらに確認している。特に、小さなお子様達に安心して食べて頂ける商品に仕上げている。
日本の放射性物質の基準が500ベクレル/kg だが、実に千分の一の0.6ベクレルの最高検出精度の測定でもまったく検出されない眞壁屋のうどんは、世界の方々に食べて頂ける商品である。私はいつも、社員へ、『私達は安全で美味しいうどんを提供することで、人々の健康を守ると言う大切な仕事をしている』と言うことを話している。こういった使命感こそが、営利主義を打破し、日本を良くしていく源泉と信じている。一時期のもうけばかり追うビジネス、行いばかりが目につく昨今だが、皆が健康で幸せになる行い、仕事こそが日本人全員に求められている。今日も一日、頑張りましょう。
  1. 2011/12/06(火) 07:03:42|
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ETV特集より

本日 十二月四日 『原発事故に立ち向かうコメ農家』と言うNHKのテレビ番組を拝見している。福島県大玉村のコメ農家の原発事故による土壌汚染との戦いが描かれている。驚くべきことは放射性物質が、現在の国の法律では危険物質として規定されていないこと、環境法に規定されていないと言う驚くべき事実である。ゼオライト、プルシアンブルーを土壌にまき、放射性セシウムを除去しようとしました。プルシアンブルーの効果のみが頼りです。まったく問題が解決出来ないまま、その土地でコメ作を続けていかなければならない、資金繰り、風評被害との戦い。主人公が原発建設のために巨額の金を得た地権者であれば、話しがわかる、しかし、主人公、福島の多くの方々は被害者であるはずである。何故、福島の方々を救う法律はないのか。プルシアンブルーは有効に作用し、米には10ベクレル/kg以下に抑えられたと言う結果であったが、風評被害のためにまったく売れないと言う問題を抱えていると言うものであった。土壌が汚染されたまま、土壌を浄化する技術がない、放射性セシウム等の半減期は二年、三十年と長く、土壌は汚染されたままである。米からは4ベクレル/kgと言う結果で、国の500ベクレル/kgと言う基準をはるかに下回っても、お客様、消費者は、望まないと言う現実である。誰が彼、彼等を救うのか?1.2マイクロシーベルト/sと言う土壌、環境が残されたと言うエンディングであった。一般人は、法律が万人を守り、黙っていても、無関心であっても大丈夫と考えています。しかし、本当にそうなのか、社会問題に関する無関心が、最後は巡り巡って、自分に来ることを私達は考えねばならない。地震、津波はもちろん、放射性物質汚染そして多くの方々が風評被害と戦い続けていることを日本人は直視し、問題解決をはかっていかねばならない。
  1. 2011/12/04(日) 23:04:53|
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地震の一年

今朝、水戸で震度3程度の地震があった。テレビ、携帯の地震警報が鳴り、一瞬、いやな予感がした。昨晩、水戸に入ったが、昨晩以来、じわりじわりと微動しているような気がする。三月十一日、横手で震度5強の地震を経験したが、長く、土地、建物ごと横すべりで何十メートルも移動していることを感じた。後で聞くと、土地が何百メートルか移動しているとテレビで解説があった。今年一年は、三月以降、気の休まることがなかった。地震、停電、断水、放射性物質の拡散、沢山の尊い命が奪われ、生きている人々の多くが天災、放射性物質、円高、デフレといった厳しい経済と戦っている。大量生産、消費、大量廃棄、巨大建設等を続ける社会への警告ともとれる天災と私はとらえている。自然の姿にあった山、森はまったくそのままの形を留め、崩れさったものは人間が作り上げたものが殆どであった。経済もまた、商品の価値を決めるのは人間で、そういった意味においては、人工的なものの典型である。価値以上に価値を与えたり、下げたりする株、穀物、エネルギーへの投機により引っ張られる金融経済、そういった経済に、高齢化が進むヨーロッパ、アメリカ、日本のような実際に金の流れがおきにくい(モノの売買が少なくなり、金が留まる)先進国がついていけなくなってきている。つまり、若い人々が働き、必要なモノを創造する実体の部分が金融経済と乖離し、どうにもならなくなってきているのである。私は経済は専門家ではないが、GDPに対する適切な投資額を明確にしたり、実体経済と金融経済との最適な比率を明らかし、最適化しないと両者は乖離し、どうにもならない社会が出来上がってしまうだろう。地震を経験し、出来る時に出来ることをすべて行う大切さを再認識した。一人一人が、実体経済を支える働きが出来る社会にしていかねばならない。つつましやかに生きながらも使うべきものは使う、エネルギー、資源をムダにしないことを心がけるとともに、金融経済により、限りある資源、エネルギーを消費し続ける社会の流れに流れないよう(金利、デリバティブのように時間のみが金を生み出し、実物ではない先物、投資家の動向による株価にあわせて実体経済が動く流れ)にストップをかけなければならない。そのキイは今困っている問題を解決する知識(放射性物質除去、土、水、空気の浄化、食の安全性を達成、省資源、省エネルギー達成)、技術にこそ価値をつけていくことであると私は考える。
  1. 2011/12/03(土) 06:36:46|
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